今から40年前の昭和53年3月。私は31歳の時に、大恩ある株式会社後藤孵卵場をお許しを得て退社させていただき、税理士の資格だけを頼りに税務署にも会計事務所にも勤務したことのない私が、希望と不安を胸に、妻と共に岐阜市山県三輪の自宅にて高井法博会計事務所を開業させていただきました。
本年は創業40年。また、私と妻も古稀を迎えることとなります。これを機に所長を後継に引き継ぎ、会長に就任をさせていただくことと致しました。
この時にあたり、兼ねてより秘かに心に温めておりましたことを、実行に移すことに致します。
私の生家は、父が50代目の住職という浄土宗の由緒ある寺であった。檀家は少ないが、集落の多くの土地は寺の所有だった。しかし戦後社会の激変期、両親は農地解放に上手く対応できず、また生活のために試みた様々な事業も上手く対応できずに体調を崩し、極貧の生活を余儀なくされた。遂には生活保護を受け、私達兄弟は小学校低学年から新聞配達をして家計を助けたが、私が中学3年の時、父が脳溢血により半身不随となり、高校進学も断念せざるをえなくなった。そんな折、母親や先生の骨折りで株式会社後藤孵卵場 創業者 後藤静一氏に引きあわせていただいた。氏は縁もゆかりもない私に奨学金を出し、奨学生寮も作り県立岐阜商業高等学校に通わせてくださった。その後入れていただいた会社で大抜擢をしていただき、次々と試練と大きな仕事を与えていただき、私を育て、成長させていただいた。
今は亡き後藤静一氏のご恩を後世に引き継ぐために、教えていただいた生き方・思想・利他に徹することがすなわち自利であるという「自利とは利他をいう」との人間の真の生き様、「世のため人のために役立つ」ことを、人生の最終章には是非させていただきたいという強い思いを持っておりました。私は兼ねてより無駄遣いはできない性格で、コツコツと倹約し貯めておりましたささやかな私財と、今回の退職金を活用し、念願の奨学金制度「髙井法博奨学会」を設立・発足させていただくことと致しました。
一つは前述した通り「自利利他」の実践であり、今日まで私を育て、支援していただいた社会へのお返しをしたいということであります。
二つには、東京市長の後に内務大臣として関東大震災後の復興に取り組んだ後藤新平翁は、「事業家として財を遺すは下、事業を遺すは中、人を遺すは上なり」という言葉を残しました。これこそ、多くのステークホルダーのお陰で何とか事業を興し、40年。後継者陣に後を託すところまで参りました。私自身、今後個人の私生活ではもう多くのお金は必要とせず、個人のお金の使い道として若い人を育てることに使いたいと思ったことです。
三つには、誠実で一生懸命努力をしている、「品行方正・学力優秀」で、将来世のため人のためになる可能性がある子供だが、家が貧しくて上の学校に行くことができない学生を見つけ出し、その学生を援助し、このままでは野に埋もれる宿命の学生を「身を立て、名をあげ」世に羽ばたかせ、同時に岐阜市・岐阜県・日本国・社会のために有用な人財に育ってくれればという気持ちからであります。
本来、一会計事務所の創業者である私のささやかな資金で行うには限界があり、低金利下の現在、基金からの果実はほとんど期待ができませんが、私の残された人生をこの制度の充実のための活動や、その他社会性ある生き方にささやかな体力と時間を使わせていただきたいと思っております。
願わくは、この奨学金制度が「貧者の一灯」として、人類の発展に貢献する有為な人財の育成に貢献できれば、この上なく幸せに思います。
平成28年9月17日 (財)髙井法博奨学会理事長 髙井 法博