TACTグループ代表の髙井法博は、昭和21年9月17日に、浄音寺というお寺で、父・善弘と母・冨士子の間に、男ばかりの三人兄弟の次男として生まれた。
浄音寺は五十世の住職を務めた浄土宗の由緒ある裕福な寺であったが、戦後の農地解放によって生活は一変した。小作料が得られなくなり寺の生活が行き詰ったため、父は家族を食わせるためにいろいろな事業を試みたが、うまくいかなかった。そんな中でも代用教員の職についていたものの、当時の教師の職業病とも言われる肺結核を患い、父は病に倒れることとなる。
母にかかる負担が増え、戦後の食糧難、物資不足が苦しさに拍車をかけ、高井が小学校へ入学した昭和28年4月のころには、生活保護を受けざるを得ないところまで追い込まれた。
生活保護を受ける日々は、本当に苦しかった。寺の境内で飼っているニワトリが生んだタマゴを八百屋へ持っていって売ったり、新聞配達のアルバイトをして修学旅行の積立、学校の給食費などを稼いだり、少しの自由にできる小銭が欲しくて、ホタルを捕まえて旅館に売ったりもした。
また、教育に熱心であった両親のおかげで、教科書や文房具は常に新しいものがそろっていたし、様々な物語本、月刊誌、時には漫画雑誌を読み漁り夢中になっていた。今でもお付き合いがある篠田好先生は、小学4年生の時の担任であった。
昭和34年4月、山県中学校に入学するころになっても、家の状況は変わらず、生活保護が続いた。家業を手伝っていた私は、盆や彼岸などの忙しい時には一人で檀家回りをしたりもしていたが、中学3年生の夏、父は48歳の若さで、脳溢血で倒れてしまった。重症の父を心配すると同時に、以前から生活保護の調査で民生委員や県事務所厚生課の方々と父の会話を聞いていたため、「あぁ、これで高校進学は諦めなければならない」と目の前が真っ暗になった。
しかし、当時の担任の宇野先生が、私を株式会社後藤孵卵場の奨学生に選んでほしいと頼んでくれ、大恩人である後藤孵卵場の創業者、後藤静一氏と出逢うことができたのである。念願の高校進学を果たすことができた。
昭和37年4月、私は岐阜県立岐阜商業高等学校貿易科に入学する。
後藤孵卵場の奨学生は、各務原市にあった中央研究所内の学生寮「福槌寮」に住んで学校へ通う。
私のほかに、岐山高校、岐阜農林高校など四校の生徒がおり、寮費は無料で食事は三食付き、学校へは作ってもらった弁当を持って行った。
後藤孵卵場の後藤静一社長は、「生長の家」の熱心な信奉者だったので、折に触れてその教えに触れることができた。その内容は高校生にもわかりやすく、自分が人々や社会に役立つことを常に願っていた。私たちは後藤社長に心酔し、その教えは人間形成の大きな糧となった。
高校一年生の時、簿記を習ったのは福井清兵衛先生である。ある日の授業で先生が出した問題に、生徒は誰も答えられなかった。順番が私にも回ってくる。当てずっぽうで言った答が偶然にも正解だった。先生は私をほめてくれて、その日の授業は私が主役になって進んだ。
それ以来、簿記の授業は正解が出ないと、私が指されるようになった。先生の期待に応えるため一生懸命予習や復習にも励み、いつも正解を言い当て先生の笑顔を勝ち取った。簿記は私の数少ない得意科目の一つとなった。この時の自信が後に税理士の資格を取る力にもつながっていったのだろう。福井先生には事務所を新築し、その披露パーティーを開いたときにも来賓として出席いただき、お祝いの言葉をいただいた。
昭和40年4月、私は後藤孵卵場の社員となり、社会人としての第一歩を踏み出す。営業希望だったが、簿記のテストでいい成績を取ったので、経理に配属になった。今から振り返れば、この時の偶然が現在の自分につながったのだから運命とは不思議なものだ。
朝は誰よりも早く会社へ出勤する。始業時刻の30分前には席につき、終業時間は他の社員よりも1時間程多く仕事をした。仕事をだれよりも早く覚えたかったのである。だれよりも完璧に仕事を片付けたかったのである。決して頭のいい方ではない私が他人に勝つためには人一倍努力しなければならない、と歯を食いしばった。