髙井法博の歩み

tit_h2N

tit_01N

経理で一人前になるには、普通だと4、5年はかかると言われていた。私はそれを少しでも短くしたいと頑張った。これが認められ、一年後、関連会社の「美濃かしわ」に出向となって、経理主任の肩書きをもらう。19歳で役職に抜擢されたことはうれしかった。 
 
高校を卒業してわずか数年にしかならない社員が、スタートして間もないとはいえ会社の経営の中核に置かれたのだから、やり甲斐はあった。しかし、仕事の質は私の能力を超えていた。その苦労は並大抵ではなかった。小さな会社には導いてくれる上司もほとんどいないので、師匠はほとんど書物に頼った。 分からないことができると、すぐに本屋へ走り、3冊も4冊も買ってきて、家に帰るとすぐむさぼるように読む。毎月、十冊は読んだであろう。両親はまだ生活保護を受けていたので、給料の半分は家へ仕送りしたが、残り半分のほとんどを本代に使っていた。 
 
本の内容は砂に注がれた水のように吸収することができた。もちろん、本の知識だけで経営管理ができるものでもない。本で学んだ知識や疑似体験はすぐ実践に移し、試行錯誤を繰り返す。失敗と成功が織り成す糸を頼りにひたすら前進した。

thumb2_01

tit_02N

後藤ふ卵場は世界一のひよこ生産会社として順風満帆だったが、昭和40年代の中頃から大きな経営危機に直面する。グループ会社である美濃かしわにも大きな経営危機が訪れた。月末の支払いや手形決済にも事欠くようになり、取引先から激しい言葉を浴びせられることも珍しくなかった。 
 
自分の能力を超える問題が次々に起こり、私は疲労困憊していった。神経をすり減らし、食欲が落ちて眠れない日が続く。そんなある日の夜、私は寮で大量の吐血をした。薬を飲もうとしたが、胸につかえて飲み込めない。おかしいなと思った瞬間、洗面器が真っ赤になるほどの血を吐いたのである。すぐに病院に行った。診断は胃潰瘍で、1ヶ月の入院を勧められる。しかし、完全入院は1週間だけ。その後は午前中に点滴などの治療を受け、午後は会社に行き、夜になって病院に戻る日を続けた。 
 
わき目も振らず仕事に打ち込み、周りの人たちを驚かすような結果を残してきた私だったが、逆境に出会って糸が切れたように希望を失っていた。

tit_02N

暗い箱の中に閉じ込められていた私に、かすかな希望を与えてくれる言葉があった。「大学」。大学へ行きたい。人一倍知識欲が強かった私にとって、大学はいつも憧れの的だった。大学で教わる真理が私の疑問に応え、より高度な社会へのパスポートを与えてくれるに違いない。その思いはずっと持ち続けていたが、精神の危機に立ってみると、大学だけが今の苦しい現実から逃れられる脱出口のように思えた。 
 
私一人ならアルバイトをしてでも大学へ行けたかもしれない。 しかし、実家の両親を思うと自分だけが大学へ行く勝手は許されなかった。

tit_02N

大学進学を断念した私は、後藤ふ卵場の田中経理部長から「本社の早川経理課長も税理士試験の勉強を始めた。髙井君も税理士資格を取ってはどうか。」というアドバイスをもらう。会社でお世話になっていた所会計事務所の平山さんからも同じようなアドバイスを受け、税理士資格の勉強をはじめた。 
 
会社では美濃かしわは新しい活路を見つけた。各地に直売店を次々とつくり、百貨店やその頃できはじめたスーパーなど量販店にも進出したのである。従業員も増えて200人規模の会社に成長する。会社に元気が出てくると、私の体力と気力も回復した。 
 
再び猛烈な仕事の鬼となった私は、部門別会計システム農場や工場での、原価計算システムを確立したのも、この頃のことであった。企画室の室長も兼任していた26歳の頃、本社の田中部長から経営計画書をつくれという指示があった。それが経営計画書とのはじめての出会いだった。

tit_05N

初めてつくった経営計画書は、本を参考にし、親会社の経営者でもない私が手がけたものだから、完全なものができるはずもない。しかし、仕事を命じた田中部長からは、その出来映えを褒めていただき、うれしかった。曲がりなりにも美濃かしわの経営管理に役立ち、自信にもつながったのであった。この数年後、私は会計事務所を興すことになるのだが、毎年の経営計画書づくりは、現在まで一度も欠かしたことがない。それは事務所経営の設計図、羅針盤となったばかりでなく、お得意先の経営コンサルタントを務める際の最も重要なツールともなったのである。

tit_03N

やり出したら止まらない私は、税理士試験の受験勉強にもありったけの力を注ぎ込む。資格を取るまでには5科目に合格しなければならない。5年間で必ず取得することを目標にした。 
 
そして、昭和51年12月17日、私はとうとう税理士試験全科目に合格し、税理士の合格証書を郵便で受け取った。24歳で受験勉強に入り、6年目、30歳になっていた。計画より1年遅れたが、その喜びは粘り強く励ましてくれた妻への最高のクリスマスプレゼントにもなったのである。

thumb2_02

tit_05N

会社を辞めて独立するという気持ちがなかったというのは正直ではないが、私はすぐにそれを実行しようとは考えていなかった。独立してやっていける自信もなかったし、何よりも私を高校にやっていただき、物心両面で支えていただいた大恩ある後藤孵卵場に、弓を引くようなことは許されないと思った。 
 
しかし、私の気持ちは決まっていた。小さいながらも一国一城の主になろうと決めていた。
会社を辞めさせていただきたい、と社長に話したのは、名古屋税理士会に税理士登録ができた直後の4月のことである。私の申し出を聞いた社長は、退社を許さなかった。夢の実現と会社で任されている仕事の責任の大きさの間で、心が引き裂かれる思いの日が続く。しかし、私の決意の固さは変わらなかった。折を見て何度も社長に退職を申し出たが、返事はいつも同じだった。社長から退社の許可が出たのは、その年の夏だった。
「私の人生も一回なら、君の人生も一回限り。苦労して勉強をした結果を思いっきり生かしてください」
私はその言葉を深く頭を下げて聞いた。
「君から話があると言われると、私はいつもビクビクした。また、辞めると言い出すのではないかとね。ビクビクもこれで終わりだと思うと、ホッとします」社長は続けて言うと、本当にホッとしたように笑った。
円満退社であった。